親にとって子供はかけがえのない存在。だから幸せになってほしい。そう思って、私は子供の幸せを一番に願ってきました。そして私の思う「幸せな状態」が子供たちにとっても幸せであると決めつけ、「不幸せな状態」にならないようにすることが一番だと信じ、子供たちの声にあまり耳を傾けていませんでした。「人」というものを少しづつ知るうちに、それは子供のためではなく、自分のためだったことに気づいたのです。
自分の価値観が正しいと信じて疑わなかった
私は子供たちが小さいころから「人に迷惑をかけてはならない」「ルールは必ず守らなければならない」「危ないことをしてはならない」など、厳しくしてきました。
一見普通のことでは?と思うような項目ですが、私の場合は度が過ぎていたと思います。
例えば、「お友達の遊んでいるおもちゃを奪ってしまった」時、そんなことをするなんてありえない、最低だと、感情的にきつく叱っていました。やった行為に対してではなく、そんなことをするあなたは悪い子だと人格を否定する叱り方だったのです。
確かに人のものを奪うことはいけない事です。だからと言って人格まで否定してしまうのは違いました。感情的だったことも、今はとても反省しています。
でもその時の私は、これでわかってくれるだろうと信じ疑っていませんでした。
今考えると、自分が勝手に決めつけた心配や不安を子供にぶつけていただけだと思います。
人のものを奪う事でお友達がいなくなるんじゃないか。皆に嫌われてしまうんじゃないか。一人ぼっちになって寂しい思いをするんじゃないか。と。
子供に「人に迷惑をかけてしまう子」というレッテルを張り、自分が正しいことを教えなくてはひとりぼっちになってしまうと思い込み、厳しくなっていました。さらに叱ると言う通りに行動してくれる子供たちに依存していたのかもしれません。
自分で判断できないけどうまくいかないと人のせい
自分の行動や発言を認めてもらえないと、子供自身も「これでいいんだろうか・・」と自信がなくなってきます。だから私に判断を求めるようになりました。私の判断でうまくいかないと「ママのせいでできなかったじゃんか!」と怒るようになりました。
何をやるにも「ママ!ママ!」次の日の予定すら、私に聞いてくる始末。子供たちも完全に母親に依存していました。
そして母に頼り切りな子供たちにうんざりしていました。自分がこの事態を作り上げたのも気づかずに・・・
子供が親に依存しすぎて、なんでもやってもらってる状態、
親が子供を心配しすぎて自分の価値観を押し付け、言いなりにさせる状態
両方とも黄色信号だと思います。
人はそれぞれ価値観や幸せの形が違う
人間は一人一人が違う生き物。同じ境遇で生活していても、価値観やその人にとっての幸せの道って違うものです。それは大人でも子供でも同じ。
子供自身の幸せは、子供に見つけさせてあげてください。
そのために、たくさん失敗させてあげてください。
親が思ってるほど子供は弱くないです。ちゃんと乗り越える力強さを持っています。
もし乗り越えるのが大変そうなときは、しっかりと話を聞き、見方でいてあげてください。
きつく叱っていた園児の頃、うちの子にはあまり友達がいませんでした。
でも今は少しずつ友達の輪が広がってきています。子供の存在を、価値を認め始めたころから少しずつ変わってきました。
私も完ぺきに子供のことを尊重できているかと言えばそうではありません。理想も入っているのかもしれませんが、これは意識をしながら、子供を尊重できる母でありたいと思っています。
心に深く響いた「ゲシュタルトの祈り」を紹介
最後に私が今とても尊敬している心理カウンセラー「野口嘉則先生」がご紹介してくださった、ドイツの心理学者フレデリック・S・パールズの「ゲシュタルトの祈り」をご紹介します。
私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。
私は、あなたの期待に応えるために生きているわけではない。
そしてあなたも、私の期待に応えるために生きているわけではない。
私は私、あなたはあなた。
もしも偶然、私たちの心が触れ合うならばそれは素敵なことだ
もし触れ合えないとしてもそれは仕方のないことだ